トップページ 総合調査 廃線調査報告書 道路調査報告書 産業遺構調査報告書 記念碑調査報告書 小ネタ ブログ リンク 管理人について

響灘沈艦護岸(軍艦防波堤)【柳(初代)】

今もその姿をわずかに留める大正時代の駆逐艦。

2011/02/11 公開。

概要

当サイトで初の軍事関連の香りが漂う案件であるが、その方面は全く門外漢であるため極めて内容の薄い報告書となっていることを初めにお詫びしたい。実質的に単純な紹介レベルの域を脱していないことをご了承願いたい。

北九州市若松区響町すなわち洞海湾の入り口の響灘に造成された埋立地の一角に通称『軍艦防波堤』と呼ばれる場所がある。初耳の方にとっては少々具体的なイメージが困難な言葉に聞こえるかも知れない。

九州で『軍艦』という言葉から連想されるのは、産業遺構に関心の高まっている昨今では長崎の端島(軍艦島)ではないだろうか。こちらは海上に浮かぶ小島でありかつての海底炭鉱の跡地であるが、わずかな面積に立ち並ぶアパート等の建造物がてんこ盛りになっている姿が軍艦のようであることから軍艦島と呼ばれている。つまり、本当に軍艦が関係している訳ではなくシルエットが軍艦なのである。

ところが軍艦防波堤はそうではなく、本物の軍艦にその名の由来がある。かつての太平洋戦争終結後に解体された旧日本海軍の艦艇の一部が、砲身等の解体後なんとそのまま防波堤となったものである。

ここ若松の地で防波堤という新たな人生を歩むこととなったのは駆逐艦『柳(初代)』、『涼月』、『冬月』の三艦である。各艦の戦歴等については当報告書巻末の参考文献をご覧頂きたいが、これらの駆逐艦は壮絶な運命の末に終戦直後の 1948 (昭和 23) 年若松の地に防波堤となるべく集められたのである。

当時防波堤は埋立地の先端に位置し、これらの三艦は文字通り防波堤として響灘の荒波に対峙していた。その後この地の埋め立ては進み、現在ではもはや響灘に直接対峙することのない位置となっている。しかし、幸いなことに今も埋立地に埋没することなく航路に面した防波堤として存続している。

そしてこの防波堤の最大の特徴、また当報告書で取り上げた理由はただひとつ。それは今現在も駆逐艦の艦体の一部が露出していることである。残念ながら三艦全てではなく当報告書のタイトルにある通り『柳(初代)』のみである。他の二艦については隣接して設置されていたものの、激しい損傷状態及びその後の埋立地の拡張に伴い、コンクリートに埋め込まれたのである。

『北九州の近代化遺産』(巻末の参考文献等を参照)によると軍艦防波堤はここ若松以外にも以下の場所に設置されたようである。

しかし、現在も艦体そのものを見ることができるのはここ若松だけと思われる。他にご存じの方は情報を頂けると幸いである。なお、駆逐艦柳(初代)は 1917 (大正 6) 年の竣工である。つまりはあと数年で竣工後 100 年に達する歴史的な遺産でもある。そしてその歴史的価値については港を管理する北九州市港湾局により認められ、経年と共に著しい破損状況だった艦体も修復され、さらにコンクリートに埋没することもなく現在もその姿を見ることが可能なのである。

この北九州市港湾局の英断には拍手を贈りたい。この措置がなければこの地に沈設された駆逐艦は全てコンクリートに埋没する運命だった可能性もあるのだ。

当サイトでは軍事的な側面(つまり『柳(初代)』そのもの)については無知であるため、触れることはない。ただ純粋に非常に珍しい防波堤として取り上げたい。

本案件は以下の総合調査(遠征)において現地調査を行ったものである。

調査日:2008/08/23

沿革

年月日 事象
1917/05/05 柳(初代)竣工
1948/06~07 解体され若松にて防波堤として沈設
1976 高塔山中腹に三艦の慰霊碑建立

地図

今回は敢えて地図というよりはまず航空写真で紹介したい。軍艦防波堤がどこにあるかお分かり頂けるだろうか。もう少し拡大するとさらにはっきり確認できるが、時計の短針でいうと約 18:30 方向に伸びている部分である。

この軍艦防波堤の右側は響灘と洞海湾を繋ぐ航路であり、左側は貯木場であった場所である。また、軍艦防波堤の右側に突き出している桟橋のようなものは若戸道路建設に伴う工事用の仮設バースである。

旧版地形図で追いかけてみたい。私は 1:25,000 より小さな縮尺の地図はあまり捜索しない。その前提をご理解頂いた上で話しを進めたい。この軍艦防波堤の初出は 1956 (昭和 31) 年発行のものであった。

ただし、この防波堤は全長約 770m のうち約 400m を軍艦防波堤として構築されたが、この旧版地形図上では全長において特にその区別なく一様に表現されている。

また、冒頭で述べた通り軍艦防波堤竣工当時は響灘に直接面していた様子も確認できる。別の言い方をすればこれらの駆逐艦は本来の役目を終えてなお、海の上で過酷な任務をこなしていたのである。

ところで、軍艦防波堤の左下に『文』とある。すごい場所に学校がある。他ならぬ海に面した先端である。どういうことだろうか。

響灘沈艦護岸(軍艦防波堤)【柳(初代)】旧版地形図(昭和 31 年発行)

出展:国土地理院 1/25,000 地形図「六連島」(S31/11/30 発行) ※管理人一部加工

次に、埋め立てが進みつつある状況下での同地点の地形図である。発行は 1973 (昭和 48) 年である。まだ軍艦防波堤より先の埋立地そのものは完成していないものの、それに先立つ防波堤が広がっている。この時点で既に軍艦防波堤は響灘に直接面することは無くなっている。

そして注目したいのは、その記号である。先ほどの地形図では全長において同一の記号であったが、この地形図では注釈などはないものの駆逐艦の沈設部分はちゃんと記号が異なっている。

なぜこのような表記上の変化が生まれたのかは不明であるが、1962 (昭和 37) 年に北九州市港湾局による修復が行われたことも関係しているのであろうか。ただ、沈設当初のほうが視覚的に明瞭に区別できたはずなので、不思議である。

響灘沈艦護岸(軍艦防波堤)【柳(初代)】旧版地形図(昭和 37 年発行)

出展:国土地理院 1/25,000 地形図「六連島」(S48/02/28 発行) ※管理人一部加工

最後に若干時系列が前後するが 1965 (昭和 40) 年発行の地形図を見てみたい。なぜこれが最後かというと縮尺が異なり 1/10,000 なのである。さすがにこの縮尺となると表記が細かい。駆逐艦沈設部の表記は通常の防波堤部と異なるだけでなく、実際の形状を反映しているのかよれよれとしたラインで描かれている。

そう。ここに『柳(初代)』、『涼月』、『冬月』の三艦が沈設されたのである。この不自然な曲線はこれらの艦体を空から眺めたものであろうか。それとも現地での地上における実測によるものだろうか。

そしてこの地形図での最大の特徴は件の防波堤にちゃんと『廃艦防波堤』と記されていることである。なお、前述の学校は同地形図では『暁ヶ鐘学園』との表記がある。調べてみると以下のサイトに記載があった。現在は別の場所に移転しているが、北九州市児童短期養育入所と呼ばれる児童の一時預かり所のような公的施設であることが判明した。

個人的な推測としては工業地帯である埋立地という立地から周辺のいずれかの企業による技術者養成学校ではないかと想像したが、見事にハズレであった。

響灘沈艦護岸(軍艦防波堤)【柳(初代)】旧版地形図(昭和 40 年発行)

出展:国土地理院 1/10,000 地形図「若松首部」(S40/03/30 発行) ※管理人一部加工

次に航空写真を見てみたい。まずは終戦直後の米軍による撮影の航空写真である。撮影は 1947 (昭和 22) 年である。駆逐艦の沈設前である。直前の 1/10,000 の旧版地形図で通常の防波堤として記されている部分のみが完成している。この航空写真が撮影された翌年この防波堤の先端に軍艦防波堤となるべく駆逐艦三鑑が沈設されるのである。

また、中央下に写る規則正しい建物は前述の暁ヶ鐘学園である。

なお、この航空写真は以下の URL より参照可能であるので、合わせてご覧頂きたい。

響灘沈艦護岸(軍艦防波堤)【柳(初代)】航空写真(昭和 22 年撮影)

出展:国土地理院航空写真(地区:小倉、コース:M114、番号:6、撮影機関:米軍、撮影日:1947/03/12、形式:白黒)※管理人一部加工

次に、少々時代は下って 1968 (昭和 43) 年撮影の航空写真である。先ほどの昭和 40 年発行の 1/10,000 の地形図のまんまである。既に軍艦防波堤は存在し、その手前の通常の防波堤部分とは明らかに見た目が異なる。そして、特に最も北側に位置する部分の艦体は少々斜めになっており、地形図でもその様子が詳細に記されていることが分かる。

また、軍艦防波堤の東側には同じ地形図で『北防波堤』と記された防波堤も出現しており、この地の埋め立てが進んでいることを示している。この北防波堤の南側かつ軍艦防波堤の東側が響灘と洞海湾とを繋ぐ航路であり、この航空写真でも貨物船と思しき船が航行している。

先ほど同様以下の URL でも参照可能であるが、あろうことか南北が逆転してしまっているので注意されたい。

響灘沈艦護岸(軍艦防波堤)【柳(初代)】航空写真(昭和 43 年撮影)

出展:国土地理院航空写真(地区:小倉、コース:C2、番号:15、撮影機関:米軍、撮影日:1968/05/15、形式:白黒)※管理人一部加工

さらに時代は下り、1975 (昭和 50) 年撮影の航空写真である。さらに埋め立ては進み、軍艦防波堤と北防波堤が接しておりそのおかげで軍艦防波堤の三鑑のほぼ中央から北側は埋立地に埋没せんとしている。

解像度の低さは如何ともし難いが、三鑑の姿が辛うじて確認できる。これらの内北側の二艦についてはその後埋められてしまい、現在その姿を見ることが不可能となっているが、最も南側の柳(初代)にしても大部分が貯木場に突き出しているおり埋立地そのものに埋没しなかったとは言えよくぞ残ったものである。

なお、『軍艦防波堤2001年』という個人サイトでの記述によると埋められた二艦の配置については、北側から『冬月』、『涼月』の順番だったようである。

響灘沈艦護岸(軍艦防波堤)【柳(初代)】航空写真(昭和 50 年撮影)

出展:国土地理院航空写真(地区:小倉、コース:C2、番号:15、撮影機関:米軍、撮影日:1968/05/15、形式:白黒)※管理人一部加工

以下の URL でも確認可能なので、ご覧頂きたい。

調査結果

軍艦防波堤【柳(初代)】

当報告書では前述の通り埋立地に埋没された二艦については取り上げず、現在もその姿を残す柳(初代)のみについて取り上げる。同艦は北側に船首を向けており、アプローチとしてはこちらからとなる。

まず、目にするのは軍艦防波堤である旨の案内板とその横に鎮座する艦体である。防波堤の中に船が固定されているという奇妙なシチュエーションである。まさに文字通りの軍艦防波堤である。

ご覧のとおり、艦体の周囲はコンクリートで補強されているが、これは前述の通り経年及び波浪等による著しい損傷を修復した結果である。かつてこのような桟橋やシーバース等の海洋構造物の補修の仕事に関わっていた身としては見慣れたコンクリート護岸のような眺めの中に艦体が埋まっているというのは人生初の光景であり、これが大正生まれの駆逐艦だったと思うと胸を打つものがあった。

響灘沈艦護岸(軍艦防波堤)【柳(初代)】

北九州市港湾局が設置した案内板の拡大である。『冬月』及び『涼月』の二艦は埋められていることや戦艦大和の直衛艦だったことが記されている。また、最後には高塔山の中腹に『柳(初代)』と合わせこれら三鑑の戦没者慰霊碑が建立されていることも記されている。

響灘沈艦護岸(軍艦防波堤)【柳(初代)】

船首部分を見る。舳先(へさき)の角材のような鋼材が印象的である。繰り返すがこの艦体は 1917 (大正 6) 年竣工であり、およそ 100 年前の駆逐艦なのである。コンクリートによる補強がなされているとは言え感慨深いものがある。

なお、現在甲板のように見える部分にはかつて船首楼が存在していたとのことなので、甲板そのものではないようである。

響灘沈艦護岸(軍艦防波堤)【柳(初代)】

同じく船首部分を上から見る。船首楼が残っていれば映画『タイタニック』のあの場面を彷彿とさせる場所である。軍艦に関する知識が皆無であるため、この状況からかつての現役当時の姿を思い起こすのは私には不可能である。

ところで、現時点どの甲板もどきのコンクリート表面に何やら文字が記されているのがお分かり頂けるだろうか。

響灘沈艦護岸(軍艦防波堤)【柳(初代)】

その文字の部分を拡大してみる。『昭』と『8』が確認できる。先ほどの個人サイトでもこの文字が取り上げられており、かつてはもう少し判読しやすかったようで、『昭和 38.7.22』ではないかと述べられている。

また、この日付は昭和 36 年の台風による損傷に対する翌年の復旧工事に関連して記されたものではないかと考察している。仮にそうだとするとその復旧工事の竣工日であろうか。

響灘沈艦護岸(軍艦防波堤)【柳(初代)】

船首付近より船尾方向を望む。現在甲板のように見える表層部はコンクリートで覆われているが、沈設当時は船首楼もあったような状況だったことから推測するとこのコンクリートは前述の台風災害からの復旧工事の際に施工されたものかも知れない。

また艦体中央付近にはコンクリートのブロックがいくつか置かれているが、これも消波ブロックのような防波堤としての機能を果たすためのものだろうか。

響灘沈艦護岸(軍艦防波堤)【柳(初代)】

そのブロック付近より右舷側から船尾方向を望む。船首部分から続く艦体外部のコンクリート補強はこの付近で終端している。この辺りでは艦体の幅がほとんど防波堤の幅そのものであることも手伝って、例えばこの写真だけ見ても軍艦が埋まっているとは分からないだろう。

上に載っているブロックは独特の形状である。知識が無いので何とも言えないが消波ブロックの類だろうか。

響灘沈艦護岸(軍艦防波堤)【柳(初代)】

ほぼ同一地点から艦体の側部を見る。かなり錆が進行しているものの、まだまだしっかりとしている印象である。再び前述のサイトによると、防錆のため艦体が茶色に塗られたとのことであるが、さすがにこの錆の状態からすると塗装はすっかり剥がれていると思われる。

ちょうどこの辺りは艦体の中央付近であるが、側部の鉄板の様子からして甲板はこの高さだったのだろうか。コンクリートを詰める際にかなり改変されているだろうし、それ以前にもくず鉄泥棒によりかなりの鋼材が持ち去れれたとのことなので、かつての姿を想像するのは非常に難しい。

響灘沈艦護岸(軍艦防波堤)【柳(初代)】

船尾部分である。この撮影位置の少し手前辺りから何故か艦体は水平ではなくなり、ご覧のとおり防波堤にめり込むように下っている。また、それは防波堤の外周のコンクリートブロックの天端よりも低い位置まで下っているため、その間のコンクリートは斜めに打設されている。

こうやってみると艦体に詰め込まれたコンクリートと周囲のコンクリートが同年代に打設されたもののように見える。仮にそれが正しいとすれば昭和 37 年の災害復旧工事によるものかも知れない。

そして、この軍艦防波堤の奥には通常の防波堤が続いているが、その幅の違いが著しい。荷役桟橋ではなく防波堤なので、本来はこの規模で済むものであろう。むしろ、軍艦防波堤の方がある意味無駄に幅が広いのであろう。ちなみに、右側の海面がかつて貯木場だった場所である。現在は貯木場は廃止されており、特に何かに利用されている訳でもないようである。そして、左側のシーバースが並ぶそのさらに左側が航路である。

響灘沈艦護岸(軍艦防波堤)【柳(初代)】

船尾から船首方向を望む。ちょうど上に載っているコンクリートブロック付近より防波堤にめり込むように船尾に向けて斜めになっている様子が分かる。その斜めになり始める箇所の写真を撮り損ねてしまった。

改めて、よくぞコンクリートで埋めなかったものだと思う。防波堤としての役目は事実上両脇のコンクリートブロックが果たしていることと、そもそも防波堤なので上面に特に設備が不要だったことが幸いしたのだろう。

響灘沈艦護岸(軍艦防波堤)【柳(初代)】

少し角度を変えて船首方向を望む。実際のところ、かつての艦体のほんの一部しか見えていないとは思うが、その一部が輪郭であることからこのように規模やおおよその形状を伺うことができる。

そして、沈設当初は艦体両側のコンクリートは存在せず、また現在と異なり当時ここからの光景はこの防波堤以外何も無く響灘に直接面していて荒波に揉まれ続けていたと思うと、これまた感慨深い。

響灘沈艦護岸(軍艦防波堤)【柳(初代)】

そのまま船首付近に移動して、船首を望む。現在若戸道路の仮設バースが船首の先を横切っているが、かつてのその辺りには涼月の船尾があり、そしてさらにその先には冬月があった。これら二艦はコンクリートの中に埋没しているが、今も残る柳(初代)がこうやって残されたのはある意味奇跡と言っても過言ではないと思う。今後もこのまま残って欲しいと願う。

響灘沈艦護岸(軍艦防波堤)【柳(初代)】

最後に、この軍艦防波堤から貯木場跡の先を望むと風力発電用の巨大な風車が見える。北九州の工業地帯に風車が建つとは個人的には隔世の感ありと言ったところである。また手前の海面に立ち並ぶ杭はかつて貯木場だった頃の名残りである。

響灘沈艦護岸(軍艦防波堤)【柳(初代)】

総評

今回紹介した若松の軍艦防波堤は基本的に出入り自由な場所にある。しかし、若戸道路の建設工事に伴い付近一帯が工事現場と化している関係で出入りが制限されている。

見学の際にはそばに建つ同工事の現場事務所に見学を申し込む必要があるので注意されたい。事務所前の看板にその旨の記載と連絡先電話番号が載っていたが写真を撮ってはいないため、ご紹介できないのをご容赦頂きたい。ただ、私が訪れたのは土曜にであったが見学の応対はして頂けたので参考としてお知らせしておきたい。日曜日は少々怪しいが平日のみの対応という訳ではなさそうである。

なお、見学の際は工事現場ということで、ライフジャケットとヘルメットを貸しだしてくれ、着用が義務づけられる。また担当者がずっと付き添う。個人的には前述の通りこのような現場で働いていた経験があるので懐かしく心踊るものがあるが、担当者がずっと付き添うのはさっさと切り上げないと申し訳ない気になってしまう。ただ、当の本人は『ごゆっくりどうぞ』と仰っていた。

少々お話を伺ったところ、私の現地訪問の確か二週間後くらいにこの柳(初代)の艦長の孫にあたる方が見学に来られる予定が入っているとのことだった。『緊張しますね』とも仰っていた。旧日本海軍の戦艦、しかも自分の祖父が艦長を務めたそのものがこのように残されており目にすることが出来ると言うのは非常に稀有な例であろう。もう既に訪問は済んでいるはずだが実際ご自身の目で見てどのような感想を持たれたであろうか。

ここで『柳(初代)の艦長の孫にあたる方』と記したが、正確には柳ではなくそのすぐ前に接していた『涼月』の艦長の孫であることが判明。現地で耳にした内容は私の記憶違いだったのかも知れない。前述の個人サイトの以下のページでそれを知ることが出来た。私の現地調査の本当にすぐ後だっただけにとても印象深い。

当報告書では冒頭で述べた通り、現在もその姿を見ることが可能な柳(初代)に限って紹介した。実際のところ時間の関係で他の二艦の埋められた場所については仮設バースがあることもあり、現地での確認を行っていない。また、これまた前述の通り高塔山にあるこれら三鑑の戦没者慰霊碑も未訪問である。故郷筑豊に帰る機会があれば是非とも訪問したいと思っている。

なお、今回紹介した軍艦防波堤は土木学会にて『日本の近代土木遺産』に B ランクとして指定されている。当報告書巻末の参考文献を参照して頂きたい。

最後にこの軍艦防波堤が NHK でごく簡単ではあるが取り上げられた際の映像を YouTube で発見したのでご紹介しておきたい。

参考文献等

コメント

コメントをどうぞ。吹き出しマークをクリックしてください。投稿には Google+ のアカウントが必要です。


Copyright (c) 2006-2018 Golgodenka Nanchatte Research. All Rights Reserved.