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JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】

南武線のルーツ。

2010/03/22 公開。

概要

現在 JR 東日本の通勤路線として川崎~立川間を結んでいる南武線であるが、その生い立ちは多摩川で産出される砂利を運搬する目的で私鉄により建設が計画されたものであった。

その私鉄とは当初『多摩川砂利鉄道』という目的そのままの名前で 1920 (大正 9) 年に鉄道敷設免許を取得し、直ちに名称を『南武鉄道』と変更して設立された会社である。

当然砂利などの貨物のみならず現在の JR 東日本中央本線及び東海道本線という二大幹線を南北に直結する路線として旅客輸送も視野に入れ、当初の開業区間は南武鉄道設立後 7 年後の 1927 (昭和 2) 年の川崎~登戸間であり、順次延伸開業し 1929 (昭和 4) 年には立川までの延伸開業を果たしている。

さらに、開業当初には当報告書で取り上げる途中駅の矢向駅から伸びる矢向~川崎河岸間の貨物支線も同時に開業している。というよりその駅名や当初の設立目的及び最初に開業していることからもこの貨物支線こそ現在の南武線のルーツと言えよう。

この貨物支線には途中駅はなく、川崎駅に程近い矢向駅から多摩川の河畔までほぼ一直線に敷設され、終点の川崎河岸駅にはヤード、さらに多摩川の岸にもドックが設けられ、多摩川で産出される砂利を直接貨車に積み込んでいたのである。

多摩川の砂利運搬を目的として敷設された鉄道はここで取り上げる路線以外にもいくつか存在していたが、それらのうちの一つである現在の東京急行電鉄にかつて存在した砧線については以下の調査報告書を公開しているので合わせてご覧頂きたい。

また、このような多摩川の砂利運搬を目的として鉄道一覧は『多摩川流域リバーミュージアム』内の学習プログラム資料の中に掲載があるので一例として挙げておきたい(PDF ファイルであるが、Google Docs によりブラウザのみで参照可)。

その後多摩川の砂利の採取は河床の低下等の被害の拡大につれて徐々に禁止されていき最終的には下流域での採取が全面禁止となったため、旅客輸送による利益の望めない路線は廃止された。砧線もそのような路線の一つである。ちなみに、多摩川の砂利採取の実態については以前ブログのほうで(かなり)簡単に紹介しているのでこちらもご覧頂けると幸いである。驚くべき内容である。

なお、多摩川における砂利採取の歴史については同ミュージアム内の『多摩川誌』にも第 5 編『川の空間利用』 - 第 3 章『砂利採取』で詳しく取り上げられている(巻末参考文献等参照)。

今回取り上げる矢向~川崎河岸間の貨物支線も多摩川河畔での砂利積み込みを主目的とする貨物専用の盲腸線であり、旅客輸送を行っていなかったことから、1972 (昭和 47) 5 月 25 日を以て廃止となった。ただ、多摩川流域での砂利採取の全面禁止は 1965 (昭和 40) 年 3 月 31 日であり、当貨物支線廃止までは 7 年ものタイムラグがある。

このあたりの経緯は把握出来ていないが個人的に勝手な考察としては、終点の川崎河岸駅付近にある現在神奈川県営河原町団地となっている敷地にはかつて東京製綱株式会社川崎工場があったことから、砂利輸送終了後もこの工場に関連する貨物輸送が継続されていたのではないだろうか。

また、Web で調べていると以下のサイトに寄せられた質問及び回答から川崎河岸駅から付近にあった市場への引き込み線もあったと言う。

ここで触れられている『市場』がどこにあった何の市場なのか不明であるが、それは文献調査をあまり進めてこなかった私の不徳の致すところであり、後に考察を試みてはみるものの情報をお持ちの方はコメント等頂けると幸いである。

東京製綱の工場の移転後現在の河原町団地が建設されており、現在付近には『市場』は存在していないようであるが、この二大荷主による貨物輸送が砂利運搬廃止後続いていたのではないだろうか。

現在この貨物支線跡地は『さいわい緑道』として市民の憩いの場となっている。なお、『さいわい』とは直接的に幸せを意味しているのではなく川崎市幸区(さいわいく)という地名である。

調査日:2006/08/20、2009/03/15

沿革

年月日 事象
1920/01/29 多摩川砂利鉄道として川崎町~稲城間の鉄道敷設免許を取得。
1920/03/01 南武鉄道設立。
1927/03/09 川崎~登戸間、貨物支線矢向~川崎河岸間開業。
1929/12/11 分倍河原~立川間延伸により全線開業。
1944/04/01 国有化。国鉄南武線となる。
1987/04/01 国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道が承継。
1972/05/25 貨物支線矢向~川崎河岸間、川崎河岸駅廃止。

地図

調査対象周辺の航空写真である。吹き出しにマウスカーソルを合わせると簡単な説明がポップアップするのと地図上でマウスホイールによる拡大や縮小、さらにドラッグによる移動や上部メニューによる航空写真への切り替えも可能なのでご利用頂きたい。

川崎の市街地のすぐそばにありながら砂利輸送を目的として多摩川を目指して一直線に伸びていた様子がよく分かる。

大正 14 年発行の地形図である。まだ南武鉄道は開業前である。しかし、終点の川崎河岸駅付近にあった前述の東京製綱の川崎工場と思われる工場は既に多摩川のすぐそばにあった。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】旧版地形図(大正 14 年発行)

出展:国土地理院 1/25,000 地形図「川崎」(T14/02/28 発行) ※管理人一部加工

上の地形図で東京製綱の工場の部分を拡大してみると興味深いものに気がつく。それは工場内から多摩川に伸びる引き込み線である。

ちょうど北斗七星のような形をした引き込み線が現在の国道 409 号を豪快に横切って多摩川の河岸まで伸びている。この引き込み線については同工場の移転及び河原町団地の建設のため痕跡は皆無である。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】旧版地形図(大正 14 年発行)

出展:国土地理院 1/25,000 地形図「川崎」(T14/02/28 発行) ※管理人一部加工

南武鉄道が昭和 2 年に川崎~登戸間において開業し、その西隣には旧国鉄時代の新鶴見操車場も昭和 4 年に完成した後となる昭和 7 年発行の地形図である。

川崎の市街地の裾に多摩川めがけて貨物支線が一直線に伸びている。また、少々小さくて見辛いが東京製綱の工場及び引込線もまだまだ健在である。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】旧版地形図(昭和 7 年発行)

出展:国土地理院 1/25,000 地形図「川崎」(S07/10/30 発行) ※管理人一部加工 

再び東京製綱の工場付近すなわち川崎河岸駅周辺を拡大してみる。今回取り上げる貨物支線が多摩川河畔まで飛び出し、船溜まりを設けて積み込みドックとしていた様子が見て取れる。

また、東京製綱の引込線の健在ぶりも明らかである。しかし、この地形図で改めて貨物支線を見ると多摩川の砂利輸送のためというよりも、まるで東京製綱の専用線のような描かれ方にも見える。実際両方の輸送を担っていたのではないだろうか。そして現国道 409 号にはこれらの二つの線路の踏切が連続していたのである。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】旧版地形図(昭和 7 年発行)

次は 1947 (昭和 22) 年に米軍が撮影した航空写真である。基本的には上の昭和 7 年発行の地形図のままといった感じである。ただ、解像度の関係で東京製綱の引込線は不明瞭となっており、この時期存在していたのかが定かではない。

貨物支線のほうは多摩川に突き出たドックや川崎河岸駅のヤードの様子が見て取れる。また、冒頭で述べた『市場』への引込線と思しきものも写っている。ここでは東京製綱の敷地の西端にある建物を『市場』と仮定していることになるが、実際のところ本当にここが市場だったのかさらなる調査が必要である。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】航空写真(昭和 22 年撮影)

出展:国土地理院航空写真(地区:東京西南部、コース:M696、番号:146、撮影機関:米軍、撮影日:1947/12/20、形式:白黒)※管理人一部加工加工

また、この航空写真については以下のリンクより閲覧可能である。

もう少しお付き合い願いたい。最後に紹介するのは昭和 49 年度に撮影された航空写真である。時期的にはちょうど河原町団地が完成を迎えようとしている時期のようで写真からは一部の棟を除きほぼ完成している様子が分かる。

今回当報告書で取り上げている貨物支線については廃止後二年が経過しており、既に線路や枕木は撤去され後の公園化に向けてのものと思われる整備が進められているようである。ただし、これまでの地形図や航空写真と比較すると以下の点に気がつく。

  1. 多摩川河畔に存在したドック(船渠)は同貨物支線廃止前に既に撤去済みであったと考えられる。
  2. 前述の『市場』への引込線も同様に早い時期に撤去済みであったと考えられる。
  3. 川崎河岸駅のヤードの南端はかつては水路であったが現在は道路化されている(冒頭の地図参照)ため、この貨物支線跡の公園化整備と合わせて暗渠化されたと考えられる。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】航空写真(昭和 49 年度撮影)

出展:国土交通省 国土画像情報(カラー写真) 整理番号「CKT-74-15」、写真番号「30」 (S49 年度撮影)※管理人一部加工

また、この航空写真については以下のリンクより閲覧可能である。

場所を移動してこの貨物支線の本線である現在の南武線の分岐点付近を見てみると、住宅地の中に強引にめり込んだ旧矢向電車区が見える。また、この写真では小さくて分かりにくいかも知れないが、現在貨物支線跡に一部建っている住宅等はこの時点では存在していないことが分かる。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】航空写真(昭和 49 年度撮影)

また、この航空写真については以下のリンクより閲覧可能である。

出展:国土交通省 国土画像情報(カラー写真) 整理番号「CKT-74-15」、写真番号「29」 (S49 年度撮影)※管理人一部加工

調査結果

矢向駅付近~矢向第二住宅付近

この区間の当報告書執筆時の最新の航空写真である。冒頭の地図でも『航空写真』に切り替えることにより同様の表示が可能である。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】航空写真(Bing Maps)

まずは矢向駅のすぐ南の分岐点跡付近を望む。右端の複線が南武線の本線であり中央の留置線に電車が留置されているが、貨物支線は中央左に映る茶色のマンションの右側に沿うように分岐していた。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向駅付近~矢向第二住宅付近)

逆(南)側より分岐点付近を望む。茶色のマンションとその横に並ぶ住宅の手前の樹木のあたりを貨物支線が通っていたのである。また、画面右端の白い建物は『横浜市矢向地区センター・矢向地域ケアプラザ』と書かれたもので、地図上では『矢向第二住宅』と示されているものであるが、ここは前述の旧矢向電車区の跡である。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向駅付近~矢向第二住宅付近)

先ほどのマンションの手前の樹木のあたりは現在小さな公園と駐輪場になっている。マンションの形状が貨物支線に沿っていることがよく分かる。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向駅付近~矢向第二住宅付近)

この先は先ほどの『矢向第二住宅』に併設された図書館により一旦路盤跡は遮られるものの、回り込んだその図書館の入り口の道路が貨物支線跡そのものである。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向駅付近~矢向第二住宅付近)

矢向第二住宅及び併設の図書館を振り返る。ここをかつては砂利を満載した貨車が通っていたのである。もちろん、当時はこのように住宅は建て込んではなく、前述の旧版地形図で明らかのように見渡す限りの田園風景であった。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向駅付近~矢向第二住宅付近)

矢向第二住宅付近~国道 1 号付近

この区間の当報告書執筆時の最新の航空写真である。画面左側にやや斜めではあるが南北に道路が二本ほど貨物支線跡と交差しているが、この間には現在住宅が立てられているが、この区間を過ぎると路盤跡は『さいわい緑道』となっている。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】航空写真(Bing Maps)

一本目の斜めの交差道路から先は路盤跡に住宅が建てられており、直接辿ることは不可能となっている。しかし、住宅の右側にある茂みにある柵に注目頂きたい。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

その柵は枕木で作られているのである。さらに、写りがよくなかったのでここでは割愛するが『工』マークの敷地境界標もこの茂みの中には残っている。ということはこの柵も貨物支線が現役だった頃からのものかも知れない。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

住宅はもう一本の交差道路まで続いている。写真では少々伝わりにくいがカーブした路盤跡に建てられているため、それぞれの住宅は異なる角度で連続している。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

反対側より望む。こちらからでも住宅が路盤跡のラインそのままにカーブしながら建てられていることが分かる。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

二本目の交差道路より矢向駅方面を振り返る。道路に対して斜めに住宅が建っていることと、奥のバルコニーのある住宅は二枚上の写真にも登場していることや、手前の住宅と微妙に角度が異なっていることも分かる。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

同地点より川崎河岸駅方面を見る。こちら側もやはり道路に対して斜めに住宅が建てられている。住宅の裏にある樹木は『さいわい緑道』の西端にあたる。なお、右端の自転車の前輪付近には『工』マークの敷地境界標が何故か引き抜かれた状態で転がっている。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

その敷地境界標である。なぜ引き抜かれたままでここに放置されているのかは不明であるが、おかげでここに鉄道が走っていた証左としては貴重な存在となっている。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

そして、奥にはもう一本の敷地境界標が残されており、こちらはしっかりと立ったままである。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

この敷地境界標付近より矢向駅方面を振り返る。廃止から約 40 年近くが経過し、敷地の形状と敷地境界標以外に鉄道の存在を感じさせるものは既にない。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

ところで、この敷地境界標のある住宅付近は 2006/08/20 に撮影したものであるが、2009/03/15 に再訪したところ、住宅が集合住宅に建て替わっていた。ただ、手前の自転車置き場は健在であった。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

そして、気になる敷地境界標は驚くべきことにこちらも転がったまま健在であった。この時は奥の二本目の敷地境界標は確認しなかったが、恐らくこちらもそのまま地面にしっかりと残っていると思われる。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

この集合住宅の裏に回ると貨物支線跡は『さいわい緑道』となり終点の川崎河岸駅跡まで辿ることが可能となる。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

矢向駅方面を振り返る。写真は建て替わる前の住宅のものであり、現在は若干風景が異なる。中央の通路部分がまるでかつての線路の位置を示しているようである。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

建て替え後の『若干』風景が異なる様子である。住宅の後ろに新しく建てられた集合住宅の屋根が見えている。また、樹木はことごとく手入れされた結果非常に見通しがよくなっている。そして誰かがこちらを監視している。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

ん ?

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

んん ?

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

ということで、しばし戯れることとなった。ご一緒に癒されていただきたい。※下の画像をクリックするとアルバム画面へ移動します。

気を取り直して川崎河岸駅方面を望む。樹木の茂り具合でこうも景色が変わるものかと驚かされる。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

しばらく進むと、右側の擁壁にカラータイルで描かれた SL が現れ、ここに鉄道があったことを伝えているのかも知れない。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

そして、右端には『川崎河岸駅』と書かれた駅名標と気合に満ちたポーズで合図を送る駅員と思しき人物が描かれている。個人的には隣の駅として『やこう』とも書いて欲しいような気もする。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

ここから先も『さいわい緑道』は路盤跡そのものとして続いている。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

すぐ上の写真の左下に写る青い擁壁には地元の子供達が描いたのか、SL と砂利を満載していると思われる無蓋車が描かれている。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

その先ではセミの抜け殻も発見した。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

また、手入れが行き届いた非常に美しいこの公園には『ぶんちゃん池』と『休み処いたさん』と名付けられた手作りの休憩ポイントもあり、由来の説明もあるのでぜひ立ち寄って頂きたい。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

さらにその先には恐らくこの『さいわい緑道』に対してのものと思われる『国土交通大臣章』の受賞記念プレートも展示されている。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

そして、このプレートを過ぎるとまもなく国道 1 号との交差部である。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

かつて、ここには踏切があり砂利を満載した貨物列車が横切っていたのである。正面に見えるコンクリートの低い擁壁部分が貨物支線跡であり、その右側は貨物支線廃止前から存在する南河原公園である。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(矢向第二住宅付近~国道 1 号付近)

国道 1 号付近~川崎河岸駅跡付近

この区間の当報告書執筆時の最新の航空写真である。はっきり言って貨物支線跡がほぼそのまま緑地化されているのでわざわざ示すまでもないが。冒頭の米軍撮影の航空写真と比較して欲しい。

この路盤跡周辺は大きく変貌している。また、多摩川河畔にあったドックも撤去され、新たにマンションが建ちその痕跡は無い。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】航空写真(Bing Maps)

国道 1 号を渡った地点より矢向駅方面を振り返る。かつてここには踏切があったのである。天下の国道 1 号を砂利列車が横切っていたのである。当時の光景をつくづく見てみたい。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(国道 1 号付近~川崎河岸駅跡付近)

これより貨物支線跡は南河原公園の北側にこれまで同様緑道として続いている。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(国道 1 号付近~川崎河岸駅跡付近)

その少し先では路盤跡そのままのカーブも残されている。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(国道 1 号付近~川崎河岸駅跡付近)

その先ではカラー舗装となり川崎河岸駅跡を目指す。画面奥の自転車が停まっているあたりが河原町団地の西端を南北に走る道路との交差地点である。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(国道 1 号付近~川崎河岸駅跡付近)

その交差部である。左側の白い建物が河原町団地である。貨物支線跡はこのまままっすぐ終点を目指す。ここもかつては踏切だったはずである。この交差点名は『河原町団地南側』である。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(国道 1 号付近~川崎河岸駅跡付近)

冒頭で紹介した『市場』への引込線は米軍撮影の航空写真より推測すると、画面奥側より左側の白い建物の手前に沿ってカーブし手前の道路と平行に画面左側へ進んでいたことになる。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(国道 1 号付近~川崎河岸駅跡付近)

その『市場』とは現在の『はなもーる商店街』の場所にあったのだろうか。こちらは全く調査できていないのでご存じの方は情報を頂けるとさいわいである。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(国道 1 号付近~川崎河岸駅跡付近)

河原町団地南側交差点を北側から望む。矢向から伸びてきた貨物支線はここで踏切となり画面右側より左側へ進んでいたのである。砂利の積み込みは画面左側を進んだ川崎河岸駅で行われていたため、矢向駅方面からは空車回送であったと思われる。

ただし、河原町団地の前身である東京製綱の工場への貨物もあったと考えられるので、必ずしも空車回送とは限らなかったとは思われるが。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(国道 1 号付近~川崎河岸駅跡付近)

これより先はいよいよ川崎河岸駅のヤード跡へと進む。緑道の幅もかつてのヤードの形状そのままに広がっていく。ちなみに、二枚目の写真は再訪時の同一地点の様子である。この間 2 年半が経過しており貨物支線とは関係ないが、中央の何本かの木は切られ下草もすっかり除草されたようである。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(国道 1 号付近~川崎河岸駅跡付近)

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(国道 1 号付近~川崎河岸駅跡付近)

ヤード跡は現在ほどよい運動スペースとなっており、都会の子供達の安全な遊び場となっている。かつてここはひっきりなしに貨車の入換作業が行われていた当貨物支線の中枢部であった。こちらも参考までに再訪時の様子も紹介しておく。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(国道 1 号付近~川崎河岸駅跡付近)

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(国道 1 号付近~川崎河岸駅跡付近)

ここにもかつての鉄道の存在を伝えていると言えなくもないアイテムがある。それがこの遊具である。残念ながらどこかのバカにより落書きされているものの、子供達には楽しまれているようでなかなか写真が撮れない。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(国道 1 号付近~川崎河岸駅跡付近)

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(国道 1 号付近~川崎河岸駅跡付近)

ちなみに、幸いにも再訪時には再塗装により落書きも消え装いも新たに子供達の相手をこなしている。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(国道 1 号付近~川崎河岸駅跡付近)

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(国道 1 号付近~川崎河岸駅跡付近)

ヤード跡の終端部である。画面正面奥の茂みの向こうは国道 409 号府中街道である。貨物支線の本線は左側の通路部分であり、そのまま国道を横切ってその先の多摩川河畔に設けられていたドックまで線路が続いていたのである。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(国道 1 号付近~川崎河岸駅跡付近)

現在国道を横切ったその先にはマンションが建ち、かつて砂利の積み込みで賑わったであろう風景は想像することが難しい。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(国道 1 号付近~川崎河岸駅跡付近)

同地点より矢向駅方面を振り返る。まっすぐに伸びる通路部分がかつての本線跡であり、左側の広場がヤード跡である。

国道 409 号を多摩川側に渡って矢向駅方面を望む。現在は公園管理関係車両の出入り用にガードレールが途切れているものの、国道自体には横断歩道もなく、知らない人が見ればここに踏切があったとは信じられないかも知れない。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(国道 1 号付近~川崎河岸駅跡付近)

最後に多摩川河畔にあった砂利積み込み用のドックであるが、航空写真でも明らかのように護岸改修により完全にその痕跡はない。どなたかこのドックの現役時代の情報をお持ちの方はいらっしゃらないだろうか。

なお、奥に見えるトラス橋は JR 東日本東海道本線及び京浜急行電鉄の六郷川橋梁である。六郷川とは多摩川の下流域での名称である。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】(国道 1 号付近~川崎河岸駅跡付近)

総評

冒頭で紹介した『教えて goo』にもあるように川崎市街のすぐそばという都心にありながら距離の短い盲腸線でしかも貨物線であったからかあまり現役時代の情報を Web でも見かけないマイナーな印象の廃線跡であるが、私としては前述の通り現在の南武線のルーツと捉えており非常に意義深い路線であったと考えている。

幸いにもほぼ全線にわたり緑道化されたおかげで快適にかつての線路を辿ることができ、今どき風に言えば気軽な廃線跡ウォーキングが可能な案件である。

ただ、私としては中途半端な調査のおかげで特に現役時代の様子については知りたいことだらけでまだまだ継続調査が必要な案件であると痛感している。特に社史や区史等の文献調査をほとんど行えていないため、今後折を見て少しずつになるとは思うが、当報告書に判明した事実は追記していきたい。

合わせて何か情報や当時の写真等をお持ちの方は下のコメント欄からでもお知らせ頂けると幸いである。

なお、さいわい『コミュニティサイト』では河原町団地の前身である東京製綱川崎工場の空撮写真が紹介されており、川崎河岸駅のヤードも写り込んでいる。残念ながらその先多摩川河畔のドックへ伸びる線路が写っていないが、参考にして頂きたい。

JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】東京製綱株式会社川崎工場航空写真(さいわいコミュニティサイトより)

出展:さいわい工場サイト『河原町団地の前身』 ※管理人一部加工

参考文献等

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