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JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】 第一巻

『なあど』だった ?

2009/12/15 公開。

概要

JR 東日本管内でも屈指の閑散路線として知られている山田線であるが、途中のターミナル駅である宮古駅より鍬ケ崎地区の宮古港埠頭上の宮古港駅までの延長 2.0km の貨物支線が存在していた。同支線の開業は山田線が釜石まで全通開業した 4 年後の 1943 (昭和 18) 年である。

終点の宮古港駅のあった宮古港は三陸海岸における重要な港の一つであったため、この貨物支線の開業による荷役の利便性の向上は非常に大きなものであったに違いないと思う。

なお、その宮古港の造成については土木学会の土木デジタルアーカイブスに 1953 (昭和 38) 年に内務省から発行された『宮古港修築工事概要』が公開されているので参考にして頂きたい。以下のリンクは Google Docs を利用しており、ブラウザのみ(Adobe Reader 不要)で参照可能である。また巻末にもリンクを掲載している。

宮古港駅の荷役の実績は把握していないが、恐らくは以下のようなものであったと推測している。

まずラサ工業については、この宮古港駅のある鍬ケ崎地区まで田老鉱山より索道にて鉱石が運ばれ、同駅にて鉄道に積み替えられ宮古駅を経由し宮古市内小山田地区にあった同社の製錬所まで専用線を経由して輸送していたのである。このうち、田老鉱山及び鍬ケ崎の索道終点部については以下の報告書を公開済みであるのでご覧頂けると幸いである。

海産物については本当にこの貨物支線で輸送していたかは定かではないが、今日のようにトラックが物流の主役となる以前には盛岡方面へ山田線を利用して輸送していたのではないかと考えられる。何といっても宮古といえば海産物なので。また木材についても宮古港へ注ぐ閉伊川沿いの川井村や旧新里村方面には木材加工の工場も存在し、林業も重要な産業の一つであるためである。

ちなみに、『トワイライトゾ~ン MANUAL 9』掲載の昭和 39 年版全国専用線一覧表では同貨物支線について以下のような記載がある。

所管駅 専用者 第三者使用 作業方法 作業キロ 記事
宮古港 ラサ工業株式会社太郎鉱業所 ※『田老』の誤植と思われる。 宮古港湾運送株式会社 国鉄機手押 0.2  
株式会社亀井商店 国鉄機手押 0.2 国鉄側線

やはりラサ工業が登場している。ここで 0.2 km となっているのはあくまでも同貨物支線全体ではなく同社が専用している区間の距離である。ところで、亀井商店とはいかなる会社なのかとちょっとだけ調べてみたがどうやら以下の会社のようである。沿革によると同社は 1925 (大正 14) 年に宮古支店を設置、これ以降三陸沿岸に営業所を次々に設置とあるが、宮古では鍬ケ崎に営業所を置く酒類や石油製品他の販売を行っている会社のようである。

このようにこの貨物支線は距離こそ 2.0km と短いものの、宮古ひいては三陸地方の発展に大きく寄与したと考えられるが、旧国鉄の貨物輸送の合理化に伴い 1984 (昭和 59) 年に廃止となった。個人的には輸送がどんどんトラックに変わっていったのではないかと考えている。

ところが同支線はこれでオシマイとはならなかった。廃止後同時期に廃止となった前述のラサ工業精錬所までの専用線で運用されていた我が国で唯一現存する C10 型の SL である C10 8 号機を観光運転させるべく、一部の路盤が再び利用されたのである。このあたりについては現地調査後帰宅してから知ったため、調査時にこの観光運転に関する遺構については全く意識していなかったため、当報告書では基本的には取り上げないのでご承知願いたい。

ただ、残念なことにこの SL の運転もわずか二年で終了し、この貨物支線跡は再び廃線跡に戻った。しかし、幸いなことにこの C10 8 号機は大井川鐡道へ譲渡され現在も本線にて活躍中である。

なお、本報告書タイトルにも用いている『宮古臨港線』の名称は一部のサイトにてこの貨物支線の正式名称であるとの記載が散見されるため採用しているが、私自身は一次情報源にて確認が取れていない。情報をお持ちの方はご連絡を頂けると幸いである。

なお、本調査は遠征調査としての GNR - 第一次岩手計画 の一調査対象である。

調査日:2006/10/22

沿革

年月日 事象
1939/09/17 山田線全通【盛岡~釜石】
1943/11/22 貨物支線開業【宮古~宮古港】(2.0km)
1984/02/01 貨物支線廃止【宮古~宮古港】(2.0km)
1986/11/01 山田線貨物営業廃止【盛岡~釜石間】
1987/07/19 廃線となった宮古~宮古港のうち 1.4km について『SL リアス線』として元ラサ工業所有の C10 8 を運転。駅開業【はまぎく】、【うみねこ】
1989/07/23 SL リアス線途中駅開業【ミニ浄土ヶ浜公園前】
1989/10/11 SL リアス線廃止【はまぎく~うみねこ】

地図

調査対象旧線区間の地図である。なお、ここでは前述のラサ工業の宮古港駅から製錬所までの鉱石運搬に関連するものについてもあわせて表示しているので参考にして頂きたい。

1979 (昭和 45) 年の旧版地形図では同貨物支線は宮古駅東側の閉伊川に架かる宮古橋手前から分岐し、『出崎埠頭』と書かれた宮古港の埠頭の付け根の『宮古港駅』までの路線が確認できる。また同駅の少し西側から北西に伸びる線は前述の田老鉱山からの索道である。

また、別途報告書で取り上げる予定ではあるが、前述のラサ工業の製錬所までの専用線も確認できる。『藤原上町』の文字の周囲を囲んでいる線がそれである。上の地図でも表示しているので比較して欲しい。

それ以外にも故あって何度か宮古を訪れた者として興味深い点をいくつか紹介したい。まず道路関連としては何といっても現在閉伊川に架かっている国道 45 号の宮古大橋が存在しないことと、同国道が現在と異なり鍬ケ崎地区を通っていることであろう。それと忘れてはならないのが閉伊川河口南に広がる『磯鶏海岸』である。リアス式海岸では貴重な砂浜がかつてこの宮古にこのような規模で存在していたのである。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】旧版地形図

出展:国土地理院 1/25,000 地形図「宮古」(S45/07/30 発行) ※管理人一部加工

なお、もう少し時代が下った 1975 (昭和 50) 年発行の旧版地形図も紹介しておきたい、藤原地区に『藤原埠頭』なる埋立地が登場し磯鶏海岸が埋立により失われていく様がお分かり頂けると思う。この時点では磯鶏地区は難を逃れている。ちなみに、この砂浜は藤原海岸もしくは磯鶏海岸とも呼ばれ美しい浜だったようであり、Wikipedia によると推古天皇の弟君に関する悲しい伝説が伝わる浜だったとのことである(巻末リンク参照)。

なお、国道 45 号は鍬ケ崎地区のすぐ西側で山の斜面を削ってできた新道に切り替わっている。そして田老鉱山からの索道も 1971 (昭和 46) 年の閉山に伴い廃止されたため記載が消えている。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】旧版地形図

出展:国土地理院 1/25,000 地形図「宮古」(S50/03/30 発行) ※管理人一部加工

なお、現在の磯鶏海岸の様子もご覧頂きたい。現在は巨大な貯木場と化し、かつての美しい砂浜は完全に失われてしまった。もちろん林業の振興には大きく貢献しているのだろうが、あくまでも私見と仮置いた上で敢えて言わせて頂くと、浄土ヶ浜くらいしか目立った自然観光資源のない宮古にとってこれは取り返しのつかない大失敗だったと確信している。せめて上の 1975 (昭和 50) 年の旧版地形図程度にとどめておけばよかったのではないだろうか。

現在この付近は国道 45 号沿いに 巨大な防潮堤が延々続き(これはもちろん防災上必要)、お決まりの海産物のおみやげ屋があるくらいで観光資源として利用できる雰囲気ではない。一応防潮堤の海側には簡単な遊歩道が一部整備されているが、そこから見える眺めは残念ながら大量に積み上げられた木材だけである。

ちなみに、同支線開業 5 年後となる終戦直後の航空写真では白黒ではあるが磯鶏海岸の美しい砂浜の様子や当時の宮古港の埠頭の形状が現在と異なる(前述の内務省資料参照)ことなどが見て取れる。さらに現在国道 45 号となっている宮古市役所付近の山口川がまだ暗渠化されていない。

調査結果

宮古~(仮称)山口川橋梁

では実際の廃線跡を訪ねていくがまずは起点となる宮古駅付近からである。宮古駅東側に位置する八幡沖踏切から宮古駅を望む。実際に貨物支線が分岐するのはもっと東側であるため、ここからの眺めには痕跡はない。

※コメント欄での名称未確認の踏切及び道路橋の名称他の詳細な情報提供ありがとうございました。> Rasa 様

ただ、かつては左側に写る黄色い建物(パチンコ屋)の敷地までびっしりと側線が敷かれていたのであるが、その広さと現在の閑散とした様子とのギャップが大きく感じる。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】宮古駅付近

なお、写真写っている車両のうち左側の側線にたむろしているのは今は亡きキハ 52 系である。現在は全てキハ 110 系に置き換わったため、かつて当たり前だったこのような光景はもう見ることができない。さらに右側にいるのはキハ 58 系が種車であるジョイフルトレインである『Kenji 号』である。そして私は幸いなことにどちらも乗車する機会を得ている。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】宮古駅付近

今度は同踏切より西側を望む。写真自体はピンボケでダメダメだが、単線非電化区間の味わい深い鉄道情景である。貨物支線はちょうど正面に見える国道 106 号の新南大橋の真下付近より画面左側に分岐していた。なお、SL リアス線時代にはその辺りに『はまぎく駅』が設置されていたとのことである。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】宮古駅付近

ちなみに、この八幡沖踏切であるが今となっては懐かしいデザインの標識が残されているのでご紹介したい。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】宮古駅付近

と、同踏切のそばだったと思うが人懐っこい猫と遭遇した。あまり時間に余裕はなかったのだがしばし戯れることとなった。色が黒く汚れているのは道路の上で転がったからであり、それまでは真白で美しかった。ただ、転がって撫でてもらってご満悦のようであった。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】宮古駅付近の猫

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】宮古駅付近の猫

先程の国道 106 号の新南大橋を少し過ぎた地点より宮古方面を望む。路盤脇には枕木による柵が残されているが、路盤そのものは植物天国となっている。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

同地点より宮古港方面を望む。こちらも同様に枕木による柵が今も残されている。そしてその乾ききった枕木に時の経過を感じさせる。奥に僅かに見えている青い桁の道路橋は閉伊川に架かる国道 45 号の宮古大橋であり、この先でその橋の下をくぐることになる。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

少々くどいかも知れないが、路盤上から再度宮古方面を望む。かつてここを SL がラサ工業の鉱石等を満載して往来していたのである。当時は奥に見える新南大橋もなく、今とは違った雰囲気であっただろう。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

同様に宮古港方面を望む。ちょうどそこには細い道路が横切っており、当時は踏切があったはずである。ここからは緩やかに左にカーブしているが、いかにも鉄道らしい曲線である。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

その踏切跡である。写真は宮古方面を振り返っている。アスファルトの継ぎ目がかつての踏切の存在を物語っている。ということは踏切廃止後については道路のアスファルトも補修されていないということだろうか。ただ、踏切名称を示すような痕跡は残念ながら皆無である。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

同地点より宮古港方面を望む。奥に見える架道橋はかつての国道 45 号であった宮古橋から続く道路をくぐるものである。この部分の路盤は植物もなく砂利道として使われているようだが、どうやら右側にある木造二階建ての建物への通路となっているようである。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

旧国道 45 号との交差部である。中央こそコンクリートであるが両側に間知石積みも見られ、また左側の道路の欄干も時代を感じさせる。しかし、その奥は結構なジャングルであることが確認できる。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

内部には標識も残されているが、何を示すものかは私には分からない。と思って調べたところこれは『丙号距離標』と呼ばれるもので起点より 700m すなわち 0.7km を示すものだとのことである。またバラストと思われる砂利も大量に残されている。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

もう少し進むと宮古港寄りについてはコンクリートではなく鋼矢板で構築されていることが分かる。上の道路については実は数え切れないくらい車で走っているが、拡幅されたかどうかは注意して観察していなかった。というかそれくらい一見しただけでは分からないとも言える。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

天井を見上げると、中央が煤で黒くなっている。これは SL によるものと、無煙化後のディーゼル機関車の両方によるものであろう。推測であるが、天井の全体的な汚れが SL のもので、中央の濃い部分が両方の『合作』ではないだろうか。

またこの写真でやはり道路が拡幅されていることが天井の形状よりはっきりと分かる。これまた勝手な推測であるが、むしろ手前のハンチまでつけられた立派なコンクリート部分のほうが後年拡幅もしくは改修されたのかも知れない。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

同地点より宮古方面を望む。ここからの眺めは上部にツタが繁茂し、路盤も緑で覆われてはいるものの現役当時の雰囲気をよく残していると言えよう。なお、左の壁には『掛員外の方線路の通行を禁ずる』とのペイント書きが今も残されている。実は反対側にもそれらしきものがあるが日照の関係か既に判読不能であった。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

なお、この地点での現役当時の写真が以下のサイトに掲載されているので紹介しておきたい。なんと貨物は実質ワム 1 両のみであり 1986 (昭和 61) 年 8 月 22 日の撮影であり、晩年どころが正式に廃止後である。廃止後しばらくは運行していたという情報をどこかで見かけたがそれを裏付ける貴重な写真である。是非ともご覧頂きたい。

※コメント欄での情報及び写真の追加ありがとうございました。> 『鉄道・四季情景』管理人様

この架道橋を過ぎると先程から見えていたジャングルが眼前に立ちはだかる。その手前でも既にチャリンコが見えなくなるくらいの植物天国である。奥に見えるのは国道 45 号宮古大橋であり、ここからはほぼ直線でその橋の下へ向かう。また右側には間知石が顔をのぞかせているがその上は閉伊川沿いの道路である。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

再び宮古方面を振り返る。路盤脇には結構な大きさの木も茂り、廃止からの時の流れを感じさせる。また先程も触れた道路の欄干の形状もシルエットだけであるが、確認できる。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

果敢にジャングルに突入すると小さな水路を跨ぐ橋梁と呼ぶべきか暗渠と呼ぶべきか悩ましい構造物が残されていた。いやいや溝渠と言うべきか。それはさておき、我々一般人はこのような構造物の正式名称を知る手立てが無い。時には構造物自身に明記されている場合もあるがこのような小規模の場合はまず無いと言っていい。

もちろん現役時代の構造物台帳には記載があるだろうが、既にこの鉄道用地は国鉄や JR の手を離れているだろうからどこにどう管理されているのだろうか。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

再び振り返る。実際突入してみると大したジャングルではなく、むしろ若干とは言え人の往来があるのか、かすかなけもの道のようなものまである。ただ、比較的市街地にありながら完全に浮世離れした佇まいである。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

実は本当のジャングルはこの先であった。写真は既に宮古港方に先程のミニ橋梁を過ぎてちょっと離れた所より振り返ったものであるが、路盤は枕木の柵の左側である。さすがにここからは突入は難しいし、こうやって脇から確認できるので充分である。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

宮古港方面を望む。路盤は枕木の柵の右側を直線で宮古大橋の下まで進んでいる。また、右に見えるコンクリートは閉伊川沿いの防潮堤でありその手前を細い道路が降りてきており画面左奥の白い建物のあたりで線路跡と交差する。画面左側は現在駐車場である。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

その踏切部から宮古方面を望む。ここでもアスファルトの補修跡より踏切の痕跡を伺うのみである。この区間は日当たり良好のためか本格的なジャングルのため突入は私には不可能である。知らないでこの風景を見るとまるで本当にただの空き地であり、かつて鉄道が通っていたとは思えないくらいである。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

同踏切跡より宮古港方面を望む。宮古大橋の橋脚はちょうど路盤を避けるように立てられており、かつてのラインが想像できる。なお、橋の下はご覧の通り現在は駐車場に利用されている。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

なお、同踏切跡にはレールの撤去工事を知らせる看板が残されており、1 月 17 日から着工するとなっているが年の記載がないため、いつまでレールが残されていたのかは不明である。どなたかご存知であれば情報を頂けると幸いである。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

線路跡はこのまま宮古大橋をくぐり、防潮堤のすぐ脇を通り一路宮古港を目指す。ちなみに奥に写るビルは宮古市役所である。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

宮古大橋を過ぎると線路跡はある意味明瞭となる。幸い下草も刈られており先程の駐車場からもシームレスに進入でき、通行は容易である。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

少し進んだ地点より宮古方面を振り返る。すっかりツタで覆われているものの、間近で見ると防潮堤の巨大さが実感できる。この辺り植物も定期的に刈り取られていると考えられるが何か理由があるのだろうか。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

宮古市役所付近から宮古港方面を望む。どういう訳かこの辺りから植物の勢いが増してくる。ちなみに、SL リアス線当時は市役所そばに『うみねこ駅』が設置されたとのことなのでちょうどこの辺りだったのかも知れない。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

冒頭でも紹介した通りこの貨物線は廃止後の一時期に SL の観光運転を行っていたが、その様子の写真を先日入手した三陸鉄道の社史(最終巻巻末参考文献等参照)内にて発見したので紹介したい。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

出展:開業 25 周年記念出版『三陸鉄道』 ※管理人一部加工

さらに宮古港方面に進むと小さな川に架かる橋梁が残されている。例によって正式名称は不明だが、この川は冒頭で紹介した終戦直後の航空写真で暗渠化前の姿を確認できる山口川であるため、ここでは(仮称)山口川橋梁と呼ばせて頂く。橋自体は路盤に合わせ曲線である。しかし水面からの高さの低い橋である。満潮時はどうなるのだろうか。すぐ右にある水門の外はもう閉伊川河口である。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

付近には旧国鉄の敷地境界標も残されている。ピンボケであるが『工』のマークが確認できる。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

(仮称)山口川橋梁を宮古港方より振り返る。ここも散歩道となっているのか微妙に踏み分け道が形成されているようである。なお、画面に右奥の白い柵が直角に曲がっていて木が茂っているちょっとした広場のような場所には三陸の道路開削に生涯を捧げた牧庵鞭牛の記念碑があったと思うが、時間的に調査不可能であった。東京から宮古は結構遠いが機会を作って再訪したい。というより再訪せねばならない。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】

最終巻へ続く。


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