天滝という滝は実在するのだろうか。
2010/02/04 公開。
岩手県の三陸地方の中核都市の一つである宮古市と内陸部の県庁所在地である盛岡とを結ぶ国道 106 号の旧道を訪ねるシリーズである。同国道については上部のメニューの道路調査報告書より他の旧道区間も合わせてご覧頂きたい。
今回取り上げる天滝橋付近の旧道は同国道を盛岡方面から宮古方面に進むと岩手県道 43 号盛岡大迫東和線【落合橋】との分岐点に差し掛かる少し手前にある。もう少し細かく言えば、国道 106 号【簗川ダム建設予定地】のほんの少し手前である。
そのため、同ダムの下流側に位置する形となり直接的には水没を免れるようである。ただし、ダム堰堤にかなり接近することになるためダム完成後は容易に近づけなくなるかも可能性もある。従って他の報告書同様内容は薄いのを重々承知で公開し、少しでも情報を提供するものとしたい。
今回の旧道区間は盛岡方面から進みトンネルを伴わない最初のものと思われる。つまり、ここでは同国道と並行して流れる簗川の蛇行部分のショートカットにトンネルが使用されていないことを意味する。また、この地点は同国道が現道ヘ切り替えられたことにより盛岡側から進んできて初めて簗川と交わることになった場所でもある。
現道が簗川を横切る部分には新たに橋が架けられ、その名は盛岡側から『天滝橋』と『上天滝橋』である。読み方は調査結果でも示すが『あまたき』である。何と言うか、柔らかい響きを持つ美しい名前である。ただ、これが地名なのか滝の名称に由来するものかは現時点では確認出来なかった。情報をお持ちの方はコメント等頂けると幸いである。
これらの橋は 1971 (昭和 46) 年に完成しており、当然であるがそれまでは今回紹介する旧道が現役だったことになる。何気に私と同じ誕生年であるが、その経年っぷりを追ってみたい。
なお、本調査は遠征調査としての GNR - 第二次岩手計画の調査対象である。
調査日:2007/09/27
項目 | 内容 |
---|---|
延長 | 94.1km |
起点 | 岩手県宮古市(新川町 = 国道 45 号交点) |
終点 | 岩手県盛岡市(市役所前交差点 = 国道 455 号起点) |
道路指定 | 1953 (昭和 28) 年 5 月 18 日 二級国道 106 号宮古盛岡線 1965 (昭和 40) 年 4 月 1 日 一般国道 106 号 |
※主だったもの、若しくは把握できたもののみ。
年月日 | 事象 |
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1758 | 鞭牛閉伊街道の難所改良工事に着手、鞭牛腹帯・蟇目・茂市村・熊の穴・川井村の各地の難所を開削 |
1762 | 鞭牛川井村川井の難所を開削、鞭牛道路開発を決意して 12 年経過を記念し山田に六角塔を建立 |
1765 | 現宮古市築地付近『七もどり』の難所を開削 |
1767 | 長年の道路開発の功労を認められ南部藩主から終身扶持を受ける |
1782 | 鞭牛死去(73 歳) |
1881 | 宮古街道開通 |
1936/09/25 | 府県道盛岡宮古港線に指定 |
1953/05/18 | 二級国道 106 号宮古盛岡線に指定 |
1965/03/29 | 一般国道 106 号に指定 |
1971/05/20 | 上天滝橋竣工 |
1971/10/20 | 天滝橋竣工 |
1972/02 | 落合トンネル、境鼻トンネル開通 |
1972/09 | 川目トンネル開通 |
1975 | 区界トンネル開通 |
1978 | 一般国道 106 号全線開通 |
1984 | 宮古バイパス開通 |
1999/12/16 | 達曽部道路開通 |
2012 | 簗川道路開通予定 |
2025 | 宮古西道路開通予定 |
調査対象のオンライン地図である。例によって拡大縮小やドラッグも可能なので確認頂きたい。また、吹き出しをクリックすると簡単な説明も表示される。簗川ダム建設予定及び簗川道路も合わせた示した。
ただ、その結果今回紹介する旧道区間が小さくなってしまったのでぜひ拡大して確認頂きたい。
1/25,000 の地形図では簗川右岸に沿っていた旧道に対し、左岸に一度渡ることによって直線化されていることが分かる。また、左岸の地形があまり険しくなかったため、トンネルの建設を回避できた様子も伺える。
出展:国土地理院 地図閲覧サービス(試験公開) 1/25,000 地形図「大志田」 ※管理人一部加工
1971 (昭和 46) 年発行の旧版地形図では、それが当たり前かのように簗川右岸に国道がひたすら張り付いている。川と道のラインが同じである。
出展:国土地理院 1/25,000 地形図「大志田」(S46/08/30 発行) ※管理人一部加工
次に『いわてデジタルマップ』である。こちらでは上天滝橋よりも少し宮古側の尾根の先端よりほぼ沢沿いと思われるが細い道が描かれている。現在も道として存在するのかは不明だが、一体どこへ向かう道だったのだろうか。現在はこの先北側には採石場が広がるのみである。
出展:いわてデジタルマップ※管理人一部加工
以下のリンクより実際にオンラインで参照可能である。左側のメニューにある『主題』を『住宅地図(カラー)』に変更し、全レイヤを表示選択した上で、適宜拡大縮小して頂きたい。画面中央の赤い点が今回取り上げる天滝橋付近を示すための中心点である。
1965 (昭和 40)年撮影の航空写真では、まさに川に張り付いていた様子が確認出来る。また道路の幅員にも注目しておいて頂きたい。ところで、ところどころ木々の茂みのない広い場所があるように見えるが、これは何であろうか。伐採の跡にしては中途半端だし、牧場とかかも知れない。
出展:国土地理院航空写真(地区:盛岡、作業名:MTO652、コース:C10、番号:23、撮影日:1965/06/12、形式:白黒)※管理人一部加工
同航空写真は以下のリンクより合わせてご覧頂きたい。
現道への切り替え完了後数年後と考えられる昭和 52 年度撮影の航空写真である。簗川左岸の崖を削り新道を通した様子がよく分かる。また、左上には採石により山の地肌が露出している様子も写っている。
そして何と言っても道路の幅員がかつてと大きく異なることに注目頂きたい。後ほど写真で紹介するが、現道はもちろん立派な道路ではあるが歩道も無く、人が一人でも歩いていたら大型車同士の離合はちょっと苦しいような幅員である。かつてはどんなにか狭い道だったことだろう。
出展:国土交通省 国土画像情報(カラー写真) 整理番号「CKO-77-5」(S52 撮影)※管理人一部加工
なお、この画像も以下のリンクより確認可能であるのでぜひご覧頂きたい。例によってページ右肩の『400dpi』のリンクをお見逃しなく。
まずは宮古方の旧道分岐点付近である。ちょうど上天滝橋を盛岡方面に向かって望んでいるが、その橋の手前右側にその気になって見ないと気がつかないような道のような部分こそ今回紹介する旧道である。
前述の通り歩道も無く、また現在の大型車同士の離合の際はあまり余裕の無い幅員である。はるかに狭い幅員だったはずの旧道の当時は大型車同士の通行はどうしていたのだろうか。
上天滝橋の銘板である。他は脱落してしまったのか、この橋の銘板は 1971 (昭和 46) 年 5 月 20 日竣工を示すこれだけであった。従って現地では橋の名称は知ることが出来ず、前述の『いわてデジタルマップ』により判明したのである。UI にまだまだ不満はあるが素晴らしいオンラインサービスをありがとう。> 岩手県
早速旧道に突入する。だが、残念ながらご覧の通りの状態であったためこの時点で早すぎるが撤収となった。まぁ、ちょっとその気になれば行けないことはないレベルではあったが、時間の制約もあり断念した。
中央に電線が走り、かつてそこが道だったことを想像させる。恐らくはここが現役時代から存在したのであろう。旧道区間も短いため、わざわざ現道へ電線を振り直すメリットは薄いと判断されこのような状態になったと思われる。ということは電力会社の関係者はメンテナンスで訪れるはずなので、季節さえ選べば探索は容易と思われる。また得意の宿題である。
上天滝橋より旧道を望む。と言っても直接は見えていない。よく見ると奥に電信柱が写っているが、こう見るとまさか川の右側に車道があったとは思えない風景である。また、川原の乾いている部分の方が旧道の幅員よりよっぽど広いのではないかと思えるくらいである。
これだけでは悔しいので、その川原へと降り立った。川原にせり出している木々のすぐ右側に旧道があるが、ここからもその様子は伺えない。写真では分かりにくいが右端に電線が写っており、現地でははっきり見える。
進めるところまで進んでみる。ちょうど川原が終わる地点では護岸の石垣が崩れ、旧道へのアプローチのようになっている。ここでも木々の間から実は電線が見えているが、写真では分かりにくい。
石垣の崩壊部分を見る。間知石ではなくゴロゴロした矩形に近い石で積まれていたようである。植物に覆われていたりして写真ではこれまた分かりにくいが、画面奥までずっと石垣は続いている。
まだまだ崩壊部分である。旧道化から 40 年弱が経ち維持管理の対象から外されると、かくも植物による自然への回帰が進むのかと関心というか感嘆させられる。石垣なんて何のことはない。木の根っ子の圧勝である。
また特に崩壊が激しい部分からは旧道に上がれそうな雰囲気であるが、やはり植物がてんこ盛りであったため断念せざるを得なかった。
もう一度さらに奥の旧道部分を望む。正面の茶色と緑が混ざった崖にように見える部分も含め延々と石垣が残っている。また正面を左右に横切る電線も確認出来る。
ここで、今通ってきた川原を振り返る。奥に見える赤い桁の橋が上天滝橋である。夏に来れば気持ちの良さそうな場所である。ただ、旧道調査は実質不可能となるであろう。
実は当報告書巻末の『総評』で紹介する、とあるブログで同区間の調査を実施しており、そこでは旧道はこの上天滝橋の宮古方にも痕跡を残しているということが帰宅後判明した。それは以下の写真で最も奥に位置するが、現在簡単な駐車帯のように現道の脇に寄り添っている部分である。これまた再訪時に向けての宿題となってしまった。
今度は盛岡方の天滝橋の西詰めに移動する。旧道へは以下の写真では少々微妙な雰囲気であるが、橋の取り付き部より即座に分岐しているのが確認出来る。
先程の上天滝橋と異なり天滝橋では銘板が多く残されている。恐らくは上天滝橋も同様だったと思われるが、せめて橋名の銘板は復旧して頂きたいと思う。
旧道分岐点付近である。こちらも旧道は明瞭な状態で残されており、宮古方分岐点付近よりも露骨に電信柱が出迎えてくれる。また、植物もこちらの方が少なく容易に進入可能である。
早速進入する。宮古方同様緑の世界ではあるが、ここから見える範囲に於いてはまだ植物も少なく旧道の痕跡を辿りやすい。だが、ここでも時間の制約からこれ以上進むことが叶わなかった。
ただ、少々気になるのが写真では少々分かりにくいかも知れないが画面奥の路面にダブルトラックのようなものが見える。時折誰か自動車でここまで入り込んでいるのだろうか。考えられるのは電信柱のメンテナンスくらいであるが詳細は不明である。
天滝橋の上から旧道を望む。路面も護岸の石垣もよく残っており、そこが旧道であったことを静かに物語っている。分岐点付近では現道との高低差があるが、かつてはどのようになっていたのだろうか。
ところで、この川の水の美しさは素晴らしい。簗川ダムによってこの美しい川がどうなってしまうのかが非常に心配である。
分岐点のすぐ近くの護岸には後年追加されたと思われる洗掘防止工とも見えるなんちゃってコンクリートスラブが残されている。しかし、直接川の水に触れていることや厚さも僅かのようで、本来の姿とは思えない形状となっている。
同じく天滝橋より旧道を望む。調査が叶わなかった部分であるが、電信柱のメンテナンスがあるせいか路面自体も写真で写っている範囲に於いては容易に辿れそうである。石垣も美しく続いておりかつてこの道が現役だった頃の雰囲気を感じることができる。と言っても当時ここからの眺めを見ることは不可能であったが。
しつこいが、もう少しだけ角度を変えて石垣に注目する。アップで撮影するのを忘れたしまったため二枚上の写真と合わせてご覧頂きたいが、石垣は間知石とは異なる不揃いの大きな玉石のようなもので築かれており、積み方も布積みと乱積みの中間のような印象である。恐らくこれらの石は川原などからの現地調達ではないだろうか。
9 月下旬ではまだまだこのような旧道探索には植物の躍進に行く手を阻まれる可能性が高いことを改めて認識できたが、そのおかげで中途半端もいいとこの報告書となってしまった。必ずや再訪し旧道区間全体を踏破したい。なお、今のところ再訪時の調査の観点としてはいかのようなものを考えている。
実は Google おじさんに訪ねたところ岩手県内には天滝という滝はなかなか出て来ないのである。いわゆる名所としての滝ではないのであろうが、訪れる人も紹介されることもないような滝なのだろうか。
宮古周辺の旧道調査において実は非常に参考にさせて頂いている以下のブログでは小さな滝(?)が紹介されているが、果たしてこれが天滝なのかは定かではないようである。ちなみにその滝がどこにあるのかもまだ把握出来ていないが、再訪時には何とか見つけたい。
ちなみに、こちらのブログを紹介してしまうと当サイトなぞ全く無用の存在となってしまうが、共々ご覧頂けると幸いである。
なお、天滝橋については土木学会の『橋梁史年表』によると、『月刊土木技術』の 1979 年 6 月号の P.35 に紹介されているようである。同誌は定期購読契約者に対して過去 60 年(!) 分のバックナンバーを PDF でダウンロード出来るサービスを利用できるとあるが、定期購読は年間 \15,120 とあり、枕を濡らすこととなった。
国会図書館は大変なので東京都立図書館で蔵書検索を行ったが現れてこないため、私にとっては幻の雑誌である。1 ページのみの紹介ということは恐らく簡単な竣工した記念記事のようなものかも知れないが、工事記録のようなものかも知れないのでぜひ見てみたい。どなたかこのダウンロードサービスをご利用中の方はいらっしゃらないだろうか。